33年前の「近代化」 1990年の慶大病院

 

 また、暑い夏が巡ってきた。昭和も過ぎ平成の世になって、戦後という言葉は、はやらない。しかし、医学部の敷地を見渡すと、食研こそ取り壊されたものの、戦後どころか戦前の建物も珍しくない。それぞれ古き良き時代を忍ばせる建物ではあるが、新棟から見ると、とても時代の最先端を行く研究が行われているとは想像できない。欧米の古い街並には、落ちついた昔の外観と最新の内部設備を合わせ持つ建物も少なくないが、四谷の戦前の建物の内部は、外観に勝とも劣らず老朽化している。手動開閉のエレベーターなどは、趣を通り越して、外来者には危険さえ感じさせている。欧米の多くの都市の旧市街地では、建物の外観を変える事が禁止されているので、外壁のみを残して全面改築するため費用は新築する以上にかかるという。つい最近建てられたと思っていた日本で最初の超高層ビルである霞が関ビルも、その通信、エネルギー容量の不足から、早くも改装されることになった。
 建物や設備にも生物と同様に、老いも寿命もある。戦後、人間の寿命が延びたのに、建物や設備の寿命は短くなったように感じる。もちろん、物理的な耐用年数は品質の向上に伴い延びているのだが、時代の要求に応じられる期間は短くなってきている。二〇年前の最新ビルが改築の必要に迫られているのであれば、戦前の別館や北里講堂、戦後間もなく建った基礎棟、百年祭の旧棟、新しいと思っていた中央棟、そして最新の新棟の全てが、二〇〇一年には内装、設備が時代の要求にはそぐわず陳旧化し、一斉に新築、改装の必要に迫られるという悪夢も有り得ない事ではない。
 医学部、病院の機能を一時停止して新築、改築を行えない以上、新棟建設に始まり、二号棟、別館の研究棟化、食研の取り壊しと進んできた一連の動きを、単に新棟建設に伴う跡地利用に留まらせず、陳旧化、老朽化の著しい医学部の諸施設を近代化する流れの端緒としたい。幸いな事に、信濃町には先人の残してくれた信用と都心には珍しいまとまった土地がある。これを利用して、二一世紀を目指し、今こそ百年の計を立てて近代化の流れを押し進めて欲しい。  

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